日本に易(占い)が伝わったのが、5~7世紀頃の間といわれています。実際には正式な記録が見つかっていないだけで、さらに以前から人々の間にはそのようなモノが存在し、広まっていた可能性もあるでしょう。
まあ、その変になってしまうとあくまで根拠の無い予想になってしまいますのでここら辺で…。
では、大陸から日本に伝えられたとされる占いに関する書物は、どのような形で残っているのでしょうか。さらにそこにはどのような内容が記されているのでしょうか。そのことを探るうちに”易経”というキーワードが浮かび上がってきました。
今回はこの”易経”を探ってみましょう。
まず易経とはいつの時代に作られた書物なのでしょう。それは、中国、周の時代であると記されています。大まかな内容は、自然の摂理と人間の一生とのつながりや変化を説いたものである。
正確な作者が解明されていませんが、”三聖”すなわち、フッキ、周の文王、その息子、孔子などが大きく関わっているとされています。フッキとは、中国成り立ちの歴史には欠かすことのできない人物で、一部伝説的な人物である。正確な記載ではないため謎。
書物名の中に、”経”の字が含まれるのは、多くの儒家の間で経典として使われていたのが由来があるからであります。その為、儒教の経典では現在でも筆頭に上げられる書物です。
では、”易”の意はどうなっているのでしょうか。こちらに関しては諸説あり、易という漢字の成り立ちが、”月””日”から構成されています。そのため天体の動きから人生の予兆を読み取る占星術に習ってといわれています。
やはり自然界で行われる一定の法則が、人々の一生と密接につながっていると古代の人々は考えていたのが分かりますね。自然の摂理を読み取る方法はいくつかあった用ではありますが、易経には具体的な占法は残念ながら記されいません。
あくまで、経という精神論や嗜好的な見方が強い書物といえるかも知れません。
さらに、この時代ですでに、西洋で遥か昔から存在していた占星術を参考にしていた事が分かっています。やはり自国以外の文明の発達にはとても関心があったことも窺い知れます。
この時代の人々が宇宙観のようなものを持ち合わせていたことも分かりますね。
この時代の易は、主に政治的利用がメインでした。やはり文明の発展、国の統治の継続などには欠かせなかったのでしょう。その為に儒教の筆頭にあることも納得できますね。
単なる神頼み的要素と違い、自然の法則との調和が人類の発展、継続に繋がると信仰し、それを学術的に記し理解することにより、精神的柱になる根拠付けをしていたのでしょう。
やがてそれは海を渡り、日本にも伝わることになります。当時の日本の文明も例外ではなく、多くの革命者たちがこの易を理解、利用し文明発展の大きな支えにしてきたようです。
この時代の日本は文字が無く、これを期に中国の漢字を日本風に独自に変化させていったと考えられています。
易経は、占いの礎となるばかりだけではなく、日本の漢字からなる独自の文明発展にとても多くの影響を与えたといえるでしょう。